Horizon Zero Dawnのシナリオで狂気的天才を見た。

週末にHorizon Zero Dawn をプレイした。まだクリアしていないが、シナリオで鳥肌が立ったので筆を進めることにした。

 

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 私は「狂気的天才モノ」 の作品が好きだ。主人公が1つのことに圧倒的にのめり込み、死ぬ覚悟で努力をし、成長していく作品だ。漫画で言うと「メジャー」「BLUE GIANT」、映画で言うと「セッション」が当てはまる。

 

 狂気的天才モノの何が良いかと聞かれれば、見た後にエネルギーを貰えることだ。この手の作品は、そもそも才能がある人間が、他者を圧倒する努力をアタリマエのようにやってのける。もちろん、そこには友との別れ、どうしようもない怪我など困難がたくさん振ってくる。それをボロボロになりながらも信念の強さで打ち破っていくのだ。狂気的天才モノでは、「尋常ではない信念の強さ」というプラス要素、「圧倒的な困難」というマイナス要素の差が大きければ大きいほど、心動かされる。メジャーで言うとvs海堂戦。セッションで言うと、血まみれになりながらドラムを叩き続けるシーン。

 

 この狂気的天才モノはゲームで実現することは難しい。なぜなら、人間は自分が想像出来る信念しか測ることが出来ないからだと思う。例えば、「なんとしてでも甲子園に行きたい」という気持ちは身近であり、なんとなく想像がつく。そして、共感もしやすい。でも「ボスを倒す」は身近ではなく、想像がしにくい。その結果、ボスを倒す事自体には心を動かされることは少ない。

 

 つまり、ゲームに多いファンタジー世界において、信念の強さというものは測りにくいモノで、共感しにくいものなのだ。スポ根に狂気的天才モノが多い理由も同じである。

 

 しかし、本作でその常識を覆された。それは「人への愛」というものだった。ここで言う愛は恋人への気持ちではなく、親を思う気持ちのことを指す。

 

 本作の主人公であるアーロイは母親のことを知らない。しかし、自分のルーツを知る上で母親を知りたい気持ちが抑えられなくなった幼きアーロイ。彼女は村の試練を乗り越えると願いを叶えてくれることを知る。そこから育ての親と一緒に来る日も来る日も特訓を重ね、遂に試練を迎える。

 

 まずは、母親という人を知りたいという人に対しての思い。これは誰もが共感しやすい部分である。そして、母親がいないアーロイは「異端者」と呼ばれ、周りからいじめられたり、無視され続けたりする日々を生まれてからずっと過ごす。これが困難である。そして、母親を知るために、来る日も来る日も重ねた訓練。本作が上手いな、と思ったのは、オープニングシーンを幼少期でプレイさせ、その後に日々の大きくなるまでの毎日の鍛錬シーンをムービーで流し、その後からは大きくなったアーロンを操作するという仕様だ。これにより、なぜか辛い体験というモノの想像がどんどん広がっていった。そして、その困難があっても絶対に曲げない自分の屈強な信念

 

 つまり、本作は「人に対しての屈強な信念」というプラス要素と「圧倒的な困難」というマイナス要素の幅が非常に大きなゲームなのだ。そこに我々が想像しやすい、会ったことがない家族を探す、恩師との別れなど人への思いに対する共感要素がたっぷり詰め込まれている。その結果、狂気的天才モノのような良さが出ているゲームなのだと思う。

 

 

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